第4回の放送で古山裕一が小学校で歌を歌うシーンに紹介された児童文学雑誌の「赤い鳥」。
裕一のクラスの担任である藤堂先生のオルガンによる伴奏に合わせて、クラスのみんなで元気に歌を歌うシーンがとても印象的でした。
そのシーンでは、赤い鳥に書かれている童謡の中から選んだ曲をクラスのみんなで歌っている様子でしたね。
そこで今回は、朝ドラ・エールの児童文学雑誌・赤い鳥とは何なのか、エールでの児童文学雑誌の役割についても考察しまとめていきます!
朝ドラ・エールの児童文学雑誌・赤い鳥とは何?
児童文学雑誌・赤い鳥については、朝ドラ・エールでも簡単に説明していましたね。
赤い鳥は童話と童謡が載っている実在した雑誌で、児童文学や児童音楽というものが初めて成立した時期に最も重要な影響を与えたといわれています。
創刊したのは鈴木三重吉(すずきみえきち)さんという、広島県広島市出身の小説家で児童文学者という人物です。
子供の純粋さを育むための話や歌を創作し、それを世に広める一大運動を宣言して「赤い鳥」は発刊されました。
裕一が小学5年生になり音楽教育に情熱を傾けている藤堂先生が担任になったこともあり、赤い鳥をもとにクラスで童謡を歌ったり詩に曲をつける宿題を出したことが、裕一が作曲家になることへつながったといえるかもしれません。
児童文学雑誌・赤い鳥の発刊はいつ?
児童文学雑誌・赤い鳥の発刊は、1918(大正7)年7月1日です。
赤い鳥の刊行は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災の時や、1929(昭和4)年2月から1931(昭和6)年1月までの間一時休刊したこともありましたが、鈴木三重吉さんが亡くなった1936(昭和11)年まで続いていました。
刊行された冊数は、196冊だったそうです。
児童文学雑誌・赤い鳥に掲載された主な作品
創刊号には芥川龍之介、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、有島武郎、徳田秋声などの小説家、詩人、童謡作家、俳人などが「赤い鳥」の子供の純粋さを育むための話や歌を創作し、それを世に広める一大運動に賛同していました。
その後、菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風などの小説家、劇作家、ジャーナリスト、詩人、作詞家、仏文学者、童謡作家、歌人なども作品を寄稿したのだそうです。
ちなみに、裕一がクラスメイトと一緒に藤堂先生の伴奏で歌っていた歌は、西條八十の「かなりや」でした。
朝ドラ・エールでの赤い鳥の役割について考察
朝ドラ・エールでは、裕一がクラスメイトと歌っていた歌も赤い鳥の童謡「かなりや」でした。
その後に藤堂先生が曲をつけるよう出した宿題も赤い鳥に賛同していた人物の一人、北原白秋の詩でしたね。
エールでは、裕一の担任の藤堂先生が音楽教育に熱心だったことが赤い鳥の童謡や詩の登場につながったと言えるのではないでしょうか。
クラスの全員で元気に「かなりや」を歌っている様子からは、赤い鳥が子ども達が子どもらしい時間を過ごすための重要な役割を果たしていたようにも感じます。
また藤堂先生が赤い鳥の童謡を歌わせたり詩に曲をつける宿題を出したことが、裕一が作曲を目指し、佐藤久志が歌手を目指すきっかけになったことは間違いないと思います!
朝ドラ・エールの児童文学雑誌・赤い鳥は現在もある?
残念ながら児童文学雑誌・赤い鳥は現在はありません。
赤い鳥の刊行は、創刊した鈴木三重吉さんが亡くなった年の1936(昭和11)年8月に廃刊となっています。
しかし掲載された主な作品を見てみると誰もが1度は読んだことのある童話もあり、赤い鳥に掲載された作品が現在でも子ども達に絵本として読まれている愛される作品であることがわかるように感じます。
現代とは違い、子どもらしく生きるということが難しかったその時代の子ども達が赤い鳥の童話や童謡によって子どもらしくいられることは、現代にもその時の作品が残るほどにすごいことだったのかもしれませんね。
まとめ
児童文学雑誌・赤い鳥についてまとめてみましたが、赤い鳥自体は知らなかったものの、掲載された主な作品の中には子供の頃に国語の教科書に載っていた作品もありました。
教材として使われることもあった童話が大正時代に発刊された雑誌に載っていたものだと知って驚きましたね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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